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「治る」事の意味

2019/01/27

 

*この原稿はMRIC by 医療ガバナンス学会の許可を受け転載しています。

 

中田英之

2019年1月7日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

 

外反母趾治療

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おばあちゃんは、悲しい顔をして僕に言った。

「この足ね、治らへんっていわれたんやけど、どないやろ。」

「え?どうしたん?」

「あのな、友達とお風呂にいってん。そのときな、

『あんたの足、どないしたん?それ、外反拇趾っていうんやで。

まあ、ひどいわあ。はよ整形外科行き!』って言われてん。

 

私な、そんなもんかなと思って整形外科いったんやん。

そしたらな。

 

『これは酷い。この外反拇趾は手術してもちょっとなおらへんわ。

どうしても治したいっていうなら、手術してもええけど。

どこまで治るかわからへんで。』そう言われたんや。

 

それからな、私な、不治の病やって落ち込んでな。」

 

「ちょっと足、見せてみ。」

「えー、恥ずかしいわ。でも、ほな、ちょっとな。」と言って、

足を見せてくれた。

https://suizutatsuhiro.com/skech/181212.jpg

 

確かに外反母趾としては重症だが、、

はて、、しかし、この足、バランスが良いなあ。

 

この足なら、歩けるはず。

そう思った僕は、おばあちゃんに聞いた。

 

「あのな。おかあさん。

歩くの、今、困ってへんやろ?痛くなかったらこの足、

ちょうどええんやで。」

 

意外な事を言われ、

パッと顔が明るくなったおばあちゃん。

 

「そや、歩くのはな、問題あらへんの。

一日な六千歩ぐらい歩くんや。

ただな、足幅が広くて合う靴があれへんねん。

せやから、靴屋さんがな、

合いそうな幅広の靴を見つけたら持ってきてくれはるんや。

でもな、ちゃんとした靴を履かないかんときにな、靴があれへんねん。」

 

「そう言う事やったんね。

でも、それを除いたら、この足、ええ足やん。

むしろ、幅が広くて安定してるやん。

これ、進化したんやで。足が。」

 

「へー、そうなんや。

そう言えば、うちの兄弟、親も皆、こんな足しとるんや。」

 

「そうなんやね。おかあさん。

この足は、ええ足や。

そもそも治すってな、解剖学的な戻すのが正しいわけやないんやで。

おかあさんの足はな、母趾の根っこが親指になってな、

以下、五本ある。つまり六本指なんや。だから、全く問題なし。」

おばあちゃんは、はにかみながら、嬉しそうに頷いた。

 

さて、治療とは、一体どういうことを意味するのだろう。

 

このおばあちゃんの足には、

外反拇趾という病名がついていて平均的な形態をしていないが

「機能」に支障はないのだ。

 

つまり、「器質的」異常かつ「機能的」正常という訳だ。

見かけを整えるか、中身を重視するか、

そう言う議論と理屈は同じだ。

 

とかく、今、見かけ、形を人と同じにすることを強要する社会的風潮のなか、

少し、立ち止まって「何のために?」と考えてみてもよかろう。

 

認知症の領域においても同じ問題があるように思われる。

 

認知機能が失われることで元の生活とは違ってしまうが、

元の生活に戻すことが果たして必要なのか?

それは、盲目的に元の生活が正しいという、

周りの思い込みなのではなかろうか?

ある思考回路が切れてしまったから、出来なくなることがある。

 

しかし、そのかわりに、別のものが見えてきたならば、

それは、新たに獲得した能力と考えてもいい。

 

必要なときには、我慢せず、助けを求めたってよい。

そのお陰で人と交流し、互いに必要とされ、

ありがとうと感謝しあえることは、

一人寂しくテレビを見るより何倍も豊かではないか。

 

視点を切り替えれば違う世界が見えてくる。

 

希望を見出せれば、前に進むことができる。

そういう進化的関わりのなかで治療を再考しても良いのではないか。

最近、そう思うのである。

 

少し、自分の立ち位置を相手側に移動して、

観てみようと思う。

 

 

 

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