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看護師の倫理教育を考えたい

2017/01/05

 

*この原稿はMRIC by 医療ガバナンス学会の許可を受け転載しています。

 

看護教員  原口梨那

2017年1月4日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

 

私は、今年から看護専門学校で教員をしています。

 

看護教員になったきっかけは自分の子供が小学校に上がり、

教育が身近になったのと

働きながら編入した大学での教育学の学びから

看護教育に興味を持ったからです。

 

そして、この10月から星槎大学大学院教育学研究科で

大学院生として看護教育を学ぶことを決めました。

これは教育者としての自分を高めたいと考えるようになったことが大きな理由です。

 

今年4月から看護学生と接してきて

学校の現場や臨地実習を通して私が思ったことは、

看護教員の教育実践能力は個人の努力によるところが大きいこと、

そして、大学での教育関連の単位取得や

看護実務経験だけでは看護教員として不十分で、

深い教養や実践指導力を自ら獲得していく必要があることでした。


それまで私は看護師として新生児集中治療室(NICU)や

手術室、消化器外科病棟で慌ただしい勤務を経てきましたが、

看護師としての経験が長くなるにつれて、

看護師として学び続ける大切さを感じてきました。

 

ここでは、私が特に興味をいだいている「看護倫理」について

私自身のこれまでの看護師としての経験を振り返りながら

お話していきたいと思います。

 

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皆さんは体外受精、出生前診断、

重度の障害を持った新生児、臓器移植、延命治療、

安楽死、尊厳死と聞いてどう思われるでしょうか。


これらのことは、

生をめぐる問題として幾度となく取りざたされてきています。

 

医療の高度・複雑化だけでなく

高齢化や価値観の個別化・多様化ともあいまって、

医療職には倫理的な判断や行動が重要視される場面が多くなっています。


私の看護学生時代に習ったことをいくら思い返しても

「倫理」についての明確なイメージは浮かびませんでした。

 

看護学概論での看護師としてのあり方や

戴帽式での「ナイチンゲール誓詞」といった

道徳教育がそれに相当するのだろうと思います。


看護学生の私が「倫理」を考えたきっかけは、

一冊の本と病院実習での患者さんとの出会いでした。

 

その本とは、立花隆氏の「脳死」です。

脳死と判断された患者さんからの提供臓器で助かる命もあれば失う命もあること、

提供後の献体の扱い、

患者や家族の思いまで大切にしなければならないこと、

そういったすべての内容がまだ医療現場を知らなかった私にとって衝撃的で、

心が大きく動かされました。


病院実習で関わった患者さんは働き盛りの40代の男性でした。

脳出血で寝たきりとなったその患者さんは気管切開を受け、

自分の意思すら伝えることができない状態でした。

 

端痰を吸引される時の苦しい顔、

リハビリをしながら拘縮した関節の痛みに耐える顔、

車いすに乗りながら私と散歩をしている間での会話で

思わず流れた涙はいずれも私が鮮明に覚えていることです。

 

そこで私が感じた看護学生としての無力感は忘れません。

これらをきっかけに、相手の気持ちを思い、

自分であればどう思うかと常に考えて行動できる

看護師になりたいと思うようになりました。

 

後に、こういう考え方が看護の態度「ケアリング」*1(1)であり、

看護の具体的行為としての「ケア」と区別していることを学びました。

 

ケアリングという倫理的な考えは

私が看護師として大切にしている一つになります。

 

看護師としての初めての勤務は地元の市中病院の手術室でした。

消化器疾患を専門にしていたその病院では

消化器がん手術の患者さんを主に担当していましたが

交通外傷や脳出血など様々な急性期疾患の患者さんの手術も担当しました。


特に、進行期大腸がんの患者さんに行われた

骨盤内臓全摘術を担当したことは強く印象に残っています。

 

がんが浸潤した可能性のある臓器をすべて摘出された腹腔を見て、

根治を目指した治療とはいえ、

この手術を受ける患者さんの気持ちや手術後の回復過程、

今後の社会生活を考え、

私が今できる看護の役割とは何かについて考える機会となりました。

 

それから人工呼吸器管理をはじめとした

集中的な治療を必要とする患者さんの看護に興味を持ちました。

 

中でも呼吸器を使用しながら必死でいきようとしている超低出生体重児や、

脳性麻痺により何年も呼吸器を使いながら生活している子どもを実際に見て、

こういった子どもたちの看護がしたい、と思いNICUのある病院へ異動しました。


NICUでは本当に多くの小さな命と日々向き合う事ができました。

幼児・小児を指すinfantは「話せない」(ラテン語)に由来します。

すると新生児newborn infantは「話せない赤ん坊」2)となりますが、

早産の児でも痛みを伴う処置では手足を動かし涙を流します。

 

超低出生体重児はわずか2,3mmの気管チューブで呼吸補助を受けますが、

チューブ内の吸引は大事な看護ケアになります。

 

細心の注意をはらって吸引をするのですが、

その児がチューブを自分の小さな掌で握りしめることがありました。

「これは大事」と言っているようでとてもほほえましく、

私が温かい気持ちになりました。


看護ケアをする中で、

児の表情やしぐさはそれぞれ異なり(月齢による違いだけではなく)

言語によるコミュニケーションができなくても、

一人の人間として尊重し愛情をもって接する重要性を学びました。

 

さらにここでは、

脳室内出血(超低出生体重児におけるリスクの1つ)を発症した患児と

その家族とのかかわりの中で

「医療倫理」「生命倫理」について考える機会がありました。


患児は出生直後に脳内出血により、

たとえ命が助かっても寝たきりの状態がさけられなく(脳室内出血Ⅳ度)になりました。

 

医療従事者であった両親は、

患児のそれ以降の積極的な治療を拒否されました。


数日おきに検査のために頭部から髄液を採取されていた患児は

開眼して時折かわいい表情を見せることもあったため、

両親の気持ちや考えを聞いた医師や看護スタッフはみな大変ショックを受けました。

 

それから何度も両親と医療スタッフでの話し合いが行われ、

病院内の倫理委員会でも諮られ、

患児に対しては積極的な治療をしないと決まりました。


両親が見守る中で、

自然経過に委ねられたその小さな命は旅立っていきました。

 

この経験をふまえて直後に看護研究を行いました。

積極的な治療をしない(希望しない)重度の障害をもつ新生児に対して

医師や看護師の感じるジレンマをテーマにしました。

 

思い返すとその研究は医療スタッフに目を向けたものであり、

当時の患児の両親の気持ちを理解し、

寄り添った看護が出来ていたか、

そしてその決断を下すまで両親がどのような思いですごしてきたか、

といったケアリングまでは達することができなかったと感じています。

 

高度医療技術の発達により、

これまでは助からなかった子供の命が助かるようになりましたがその反面、

重度の障害を抱えながら生きる子どもも少なからずいます。

 

NICUでの看護経験の後、

私自身も親となりさらに障害を持つ子供を支えていきたい思いが強くなったとともに

「倫理」を大切にしたいと考えるようになりました。

 

数年前に子育てが一段落して、

看護師として働きながら通信制大学へ編入し

あらためて看護学概論や生命倫理学、心理学を学びました。

 

大学の卒業論文では、医療職の「協働」をテーマにしました。

 

そこでは「看護師の仕事は感情労働であるためそれに伴うストレスも多い、

しかしお互いの経験や気持ちを理解しチームとして働くことが

よい看護につながり自らにとってもよい経験となる」と結論づけました。

 

大学で新たに学んだ内容は新鮮で知識を得る喜びを感じ、

自分で考えるよい機会となりました。


その後、消化器外科病棟、NICU、手術室での勤務を経て、

この数年は勤務病院の臨床倫理委員も務めていました。

 

その委員会では医療現場で生じるジレンマや倫理を考え、

看護師への倫理教育を行い、

倫理教育の難しさを感じながらもやりがいを持って取り組みました。

 

病院内での倫理の学習会が行われても、

症例検討会で治療方針に関する倫理的な議題が出ても、

「答えが1つではないから難しい」という意見が多く聞かれました。

 

また、NICUや手術室といった患者さん自身が気持ちを伝えることが難しい現場では、

看護師の間でも他職種との間でも

治療方針や考え方の違いに伴うジレンマが生じていると個別に聞きました。

 

それをもとに医療職間の協働でのジレンマを

倫理の学習会で議題に取りあげましたが、

話し合いの場ではジレンマの具体的な内容や解決策に迫っていくのが

難しいこともわかりました。

 

医療を受けた患者さんが深いに感じたことを議題に取り上げても、

医療職側からのケアを中心とした意見に偏ってしまい、

患者さんのアドボケイト*※22としての共通意識を持つことの大変さも感じました。

 

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このような臨床倫理委員の活動を通して、

良好なチーム医療を行っていくためには、

たとえ答えは見つからなくても

それぞれの思いや考えを聞く機会の大切さを感じるとともに、

それが時には自分の考えにも幅をもたらすのだろうと考えました。

 

私が看護教育に教育を持ち始めたのも

ここの活動を通してのことになります。

 

日本の看護基礎教育での「看護倫理」は、

第2次世界大戦後にカリキュラムに加えられましたが、

当初は看護職の行動規範としての教育ではなく、

医師による教科書で礼儀作法や職務城の注意が書かれていたと聞きました。

 

平成4年の看護師等の人材確保の促進に関する法律を受けて

看護養成課程の大学化が進みました。

 

それに伴って看護師として

倫理的な判断をするための基礎的能力の育成も打ち出されていますが、

倫理の原則を学ぶ機会にとどまり、

臨床で生じる具体的なジレンマや

「看護倫理」を学ぶ機会が少ない印象があります。


看護学生だった私に「看護倫理」を習った

値言うインパクトが薄かったこともありますが、

看護学校教員として勤務をする今でも学内で疾患、

看護を学び実習の場で受け持ちの対象を理解し、

その方に応じた看護法を考え実践していくために

看護過程を用いて実践し評価していく教育方法は大きく変わりませんが

情報だけで自分中心になり患者さん不在の計画になってしまう場合もあります。

 

やはりそこには「患者さんの思い、気持ち」が大切であり、

私はそこを学生の頃から考える力を身につけて欲しいと考えています。

 

今の学生は同じ看護師国家資格でも

修業年数の違いや過密化したカリキュラムの中で時間に追われており

私も学生と一緒にゆっくり患者さんの気持ちに寄り添い、

看護を振り返る時間を持つことが難しくなっています。

 

臨床現場で働く看護師は

何らかのジレンマ(看護師同士でも他職種間でも)を持ちながらも

看護を進めています。

 

そのジレンマには少なからず倫理的な問題が関係します。

看護学生の頃から倫理的感性を育成していくには

教育期間の延長や授業・実習での工夫により、

看護ケアや業務を倫理的視点から考える習慣を持つことが必要と考え卒後、

その習慣を元に技術の取得や社会性を身につけることで

卒後教育もスムーズに進むと考えるからです。

 

そこで臨床側が学生に対して

看護に対する倫理的な姿勢に対して

どのように考えているかを調査し教育現場での看護倫理教育の方法を

考えていきたいと思っています。

 

これまでの自分の経験を振り返り、

あらためて看護師は患者の価値観をふまえた

人間尊重を基盤にしていると感じます。

 

看護師を目指し、看護の心、使命感を育むために学んでいる学生に対して

適切な教育学的アプローチが必要で、

大学院での学びを通して多くの教養と知識を備え、

学生の気持ちに寄り添える教員を目指したいと思います。

 

看護倫理教育の現状を知り、

学生が社会に出ても様々な問題解決策を導き出せるような

看護倫理の実践システムを考えていくつもりです。

 

仕事をしながら学べる環境に感謝しながら努力していきたいです。


(引用文献)
1)  Watoson J(1988)稲岡文昭監訳(1992):ワトソン看護論、医学書院.
2)2)横尾京子(2011):新生児ベーシックケア,P8.

※注
1. 感情労働:相手に特定の精神状態を創り出すために、自分の感情を誘発したり、

                   逆に抑圧したりすることを職務にする、

                   精神と感情の協調作業を基調とする労働を指す。

                   (社会学者A.R. Hochschildの提唱)
2. アドボケイト:権利の表明が困難な子ども、寝たきりの高齢者、障害者など、

                         個人が本来持つ権利を種々の理由で行使できない状況にある人にかわって

                         その権利を代弁・擁護する人を指す。

 

略歴
看護師、看護教員。

九州、関西の医療機関の手術室、NICU、消化器外科病棟勤務を経て

今年から看護専門学校勤務。

 

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